京都なう

うーん、やはり文体の問題は難しい。ぼくはいまでもこのブログにおける統一的なディスクールを開発することができないでいる。なんちゃってね。

何かを言語化しようとするとき、すべきことは、まず見ること、観察すること、対象を愛すること…など。

最近の問題。

  • ニコマコス倫理学において、なぜアリストテレスは Φιλόσοφος という言葉を使わないか。なぜロスは σοφὸς を philosopher と訳してためらわないか。アリストテレスにとって σοφιστής とは誰か。
  • 英語のマインドセットで日本語を喋ることはできるが、日本語のマインドセットで英語を喋ることはできない。言語構造のフレキシビリティ。
  • 坂部恵のカント解釈における晩年の copula としての主体の問題。「私」は「渡し」に通ずる。とかなんとか。
  • 晩年のフェーゲリンにおけるキリスト教の問題(historiogenesis を経由したものとしての)。第一人者である Sandoz はこの点について解釈を誤っている。