なぜ経済学者が…

昔書いた文章を発掘したので、妥当性は分からないがあとで読むためにおいてこう。

むかしフランスにのち重農主義者 Physiocrats と呼ばれる経済学者(彼らは自分たちのことを économistes と呼んでいた)たちがいて、コルベールの重商主義を批判して農業重視の政策を行うように提言していた。しかし、最終的にチュルゴーの失脚に伴って彼らの政策は失敗し、フランスは革命を迎えることになる。

経済学で自由放任主義を意味する「レッセ・フェール」とは(誤解されがちだが)基本的には彼らの作った言葉で、よく古典的経済学者として名前が挙がるアダム・スミスは(レッセ・フェールには賛同しながらも)彼らの政治的立場と経済政策そのものには反対だった。

このようなケースは近年の新自由主義とその失敗を思い起こさせないだろうか。どちらも経済学者が政治に介入して失敗した例である。経済学による政治に対する程度を越えた介入は必ず失敗へと導かれることは、マルクス主義も含め歴史が証明している。

アダム・スミスの政治観は基本的には漸進主義であって、ラディカルな改革を否定し、現行の秩序の重要性を重んじる。アダム・スミスの二つの著作、「The Wealth of Nations(諸国民の富)」と「The Theory of Moral Sentiments(道徳感情論)」における人間観の齟齬を指摘する所謂アダム・スミス問題は、人間とは一つの原理に基づいて行動するものであるという暗黙の前提をその中に保持しており、それを抜きにして考えれば最初から問題ではなくなる。アダム・スミスはそもそも経済学者ではなく倫理学者であって、個人が自らの欲求に基づいて行動するという人間観はあくまで彼の倫理学の体系のなかで理解されなければならない。

経済学は人間を原則的には理性的な個人であるとして扱うが、このような人類学的パラダイムがそもそも疑わしいことは再三言われてきている。むしろ人間の合理性はかなりの程度限定的であって、政治的実践は合理性からは大きく離れたところにある。経済学者に言わせれば政治家は無知蒙昧の人間である。それは彼らが一つの原則に基づいて行動すると言うことがないからだ。政治家は基本的に権力を求めて行動するという人がいる。それはある程度までは真実であろう。しかし権力のみを求める所謂マキャヴェリズム(マキャヴェリ自身がそのような政治観を保持しなかったことはすでに明らかであって何度でも強調されるべき事柄だが)では政治家は成功しない。

政治家は無節操かつ無原則な人間である。政治とはブリコラージュ Bricolage なのである。この語源となる動詞 bricoler には「繕う」という意味があるという。政治とは本質的に取り繕いであり、ごまかしである。それは彼が秩序の形成を担う人であるからだ。無秩序を知る人でなければ秩序を作り出すことはできない。そうでなければ、できるのはせいぜい、既存の秩序のなかで動き回ることだけだ。政治とは無から有を作り出す仕事である。

一方で経済学は節操と原則を重んじる。それは、状況Xの元で人間は行動Yを行う、という理性的パラダイムに基づいている。彼らにはすでにどのような秩序がもっとも素晴らしいのかが「分かって」しまっている。後はそのプロジェクトに基づいて実際の政治を動かしていくだけである。しかし政治とはそのようなものではない。