上位の何か

最近見た映画の中の一つのせりふ。映画自体はどうでもよかったのだけれど、カトリックの神父が、主人公の女性に対して「信仰とはね、キャシー、自分より上位の何かを信じるということだよ。愛とか、希望とか」といったようなことを(正確には覚えていないけれども)いうのだ。そして主人公の女性は、「私にはそんなことはできない」といったようなことを神父に言い返す。

もちろん愛とか希望とかは親父の本音ではなく、自分より上位の何かとはそのままカトリック的には唯一神に接続するような象徴なのだ。それでも神父が、神以外の象徴を信仰として持ち出してきていることはとても重要だ。そして、主人公がそれを否定することも…なぜなら、個人的には、この神父の意見に賛同できないということが、そのままアメリカの心の闇を表しているように思えるのだ。

アメリカという国においては、人は、個人よりも強いもの、「自分 self」よりも上位のものを機制として認めようとしない。もちろんキリスト教の信仰は今でも至る所にある。けれどもそれは、神という「上位の何か」にそのまま決定権を委ねるような形のものではない。

そして、僕の経験から言えば、こういう機制は、個人よりももっと大事であったりするのだ。