ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』1976年1月28日

構成についての全体的なまとめも参照。この1月28日の講義を正しく理解すれば、実は、フーコーの言いたいことは大体把握できる。

1. 歴史的言説とその支持者たち (p. 67-)

  • フーコーが前回の講義で行ったのは、「人種主義 racisme」を、一つの「人種間闘争 race struggle」の言説の中に位置づけることである。16世紀に誕生した歴史的=政治的言説は、19世紀末、生物学的「転写」によって社会保護主義、国家による人種主義へと変容した。フーコーが「社会に存在する敵から我々も守らなければならない」とするこの人種闘争の言説を賛美するのは、それがそれまでの歴史の語り口と闘争する、対抗史(contre-histoire)としての機能を有していたからである。

2. 人種闘争の対抗史 (p. 68-)

  • 歴史の語り方は、ローマ時代から中世に至るまで長い間権力を強化するものにとどまっていた。当時の歴史は権力の儀式の一つであって、それは一方で法秩序の連続性を強調することで歴史上のヒーローたちと現在の権力との法的な結びつきを成立させ、他方では権力の栄光によって人々を魅了した(法の二つの役割)。中世においては、それは、古い英雄たちを参照し君主の権利の連続性を強調する「系譜学的」軸、現在の日々の記録をとり権力者のすべてを忘れ得ぬものにしようとする「記憶化」の軸、そして最後に、手本を提示することで法と栄光を一つに統合することである。このような王権は、デュメジルの指摘するような、ミトラとヴァルナ─法的な王と魔術的な王の象徴─とそっくりそのまま対応している。これはローマ的な、ユピテル的な歴史であるといえる。
  • しかし16世紀から17世紀初頭にかけて、新しい種類の歴史の言説が登場する。この歴史は主権の歴史の完全なアンチテーゼとして登場してくる、国や法の内部で発生する種族間の闘争の言説である。ここで主権は従来の統合的な役割を失い、むしろ抑圧者として、弱者を押さえつける強者として登場することになる。「我々の勝利」という言説が効力を失い、「誰かが勝利するということは、誰かが敗北するということである」という、ヤヌス的な歴史が姿を現すことになる。このような言説は、主権を照らし出していた光が、実は社会を統合していくものなのではなくて、半分だけを照らし出し、もう半分を暗闇へと突き落とすような光なのだと言うことを暴き出し、積極的に影の部分を語り出すのである。これは予言的な断絶とむしろ関係があるものであって、半ばユダヤ的な、聖書的な歴史の語り方である。

3. ローマ的歴史と聖書的歴史 (p. 73-)

  • このような敗北の言説はむしろ神話宗教的、ユダヤ的・聖書的であって、政治伝説的、ローマ的な歴史ではない。中世の半ばを過ぎた頃から、聖書を参照することは、永遠のローマの法と栄光に対する抗議、プロテストとしてあった。だからこそ中世の終わり、16世紀、宗教改革とイギリス革命の時期に、主権と王に対するローマ的な歴史への抗議としての新しい歴史が出てくるのだ。この聖書的な歴史では、ローマ的な歴史とは異なり、記憶の「保存」ではなく、忘れられていた歴史を「思い出す」ことに力を注ぐことになる。征服王ウィリアムによって征服されたのは我々であると語る歴史の役割は、「法は欺き、王は仮面を被り、権力は幻想を作り出して、歴史家は嘘を語る」ということを指摘することである。それは、「隠されていた真実を解読する」。
  • まとめれば、中世の終わりまで存在していた歴史は、「主権の大掛かりな言説儀式の一つ」であった。けれどもそのようなローマ的な歴史、魔術的=司法的な王と三つの関数を持つ歴史は、ヘブライ的な歴史、聖書的な歴史、二項対立の歴史によって置換されることとなる。古代においては─それは、中世にまで続いた古代的なインド・ヨーロッパ的歴史性、歴史の語り口においては、という意味であるが─ローマこそが現実であり、ヨーロッパのすべての国がトロイアの陥落によって生まれ、すなわちすべてがローマの兄弟であるということが信じられていた。しかし人種闘争の言説は、中世がすでに古代ではないこと、ローマと彼らの間に断絶があるということ、それ以来に起こってしまったフランク人やノルマン人による侵略へと目を向け、ローマを終わらせることになる。ローマ人の歴史が終わり、フランク人の、ガリア人の、ケルト人の歴史が始まる。そこに初めて、新たな参照系が産声を上げるのである。
  • しかし気をつけなければならないことは、それが、第一に、抑圧されているものに属していたわけではないということである。それは(さまざまな、複数形の)反対集団の言説である。ここではフーコーをそのまま引用することが適切であろう:

「この言説は…十七世紀の革命期のイギリスの急進的思想に奉仕すると同時に…ルイ十四世の権力にこうするフランス貴族の反動にも役立」ち、「十九世紀初頭には…本来の主体とは民衆であるという歴史をついに書くのだというポスト革命的企てにも、確実に結びつく」。「しかし数年後には、植民地化される下等人種が劣等であるという主張にも役立った」。

  • 第二に、この「人種」は、そのまま生物学的で安定的な(つまり現在考えられているような)意味で使われたものではないということであり、単に、「起源においては同一の言語や…同一の宗教も持たない二つの集団が、戦争や侵略や制服、戦闘、勝利と敗北、つまりは暴力を対価にすることでのみ政治的統一と政治的まとまりを形成したとき、二つの「人種」が存在する」とされるのである。つまりこれは、国の内部に、二つの主体を見いだすということに役立ったと解すべきなのである。
  • 第三に、二つの、ローマ的な主権の歴史と、聖書的な服従の歴史は、単に、公式の歴史と在野の歴史に対応するわけではない。むしろヨーロッパのさまざまな知の形態は、これら二つの歴史が重なり合うところで生まれるのである。十七世紀初頭のイギリス、十七世紀末から十八世紀初頭のフランス、十九世紀初頭のフランスなどがこのような瞬間にあげられるだろう。

4. 革命的言説 (p. 80-)

  • 革命的な言説は、この聖書的な歴史の側に立っている。この人種闘争の物語は、革命の言説の一つの横糸なのである。それはマルクスの手紙からも明らかである。「近代的な」(この言葉は空虚であるが)社会とは、歴史意識の中心が革命にあり、「来るべき開放の予言」へと焦点が合わされているような社会なのである。

5. 人種主義の誕生と変容 (p. 81-)

  • 十九世紀前半、ティエールによって人種闘争から階級闘争への転換が図られたとき、一方では古い人種闘争の(生物学的、医学的な意味での人種であるが)対抗史を再度作り出そうとする試みがある。それこそが「人種主義 racism」である。しかしこれは生物学的な、進化論的な人種闘争であり、この闘争は戦士の闘争ではなく生物学的な、自然淘汰と適者生存の闘争なのである。これは既に二つの人種による二元的な社会ではなく、生物学的に一元的な、劣等人種に対する優等人種の闘争の言説なのである。だからこそ国家は、当初の人種の対抗史にとっては不正義そのものであり、ある人種による別の人種に対する道具であった国家は、再度の価値転倒のもとで、「人種の十全性と優越性と純粋性の保護者」として評価されることになるのである。
  • 人種主義は、革命言説と同根である。それはどちらも16世紀以降の人種闘争の言説から派生したものであるが、前者は「逆向きの革命的言説」なのである。フーコーをそのまま引用する。

「闘争状態にある複数の人種の言説が…ローマ的な主権の歴史的政治的言説に対抗して用いられた武器であったとすれば、単数の人種の言説は…この武器の刃を国家の保存された主権のために、それも、もはや呪術的・法的儀式ではなく医学的・規範化の技術によってその輝きと抗力が維持される主権のために用いる方法であったのだ」。

  • 詰まる所人種主義は、国家主権による人種闘争の言説の「再利用」である。

6. 人種の純粋性と国家の人種差別主義:ナチス的変容とソヴィエト的変容 (p. 83-)

  • さらに二十世紀になって、この十九世紀末的な国家人種主義、生物学的で中央集権化された人種主義は二つの方向に分岐する。第一にはナチスによる変容であり、これは十九世紀の国家人種主義の発展形であるが、中世的な神話の中にそれを再度位置づけ、闘争する人種という伝説を利用するものである。そしてもう一方にはソヴィエト的な変容がある。それは伝説を利用しない「科学主義的」な変形であって、革命的言説を、秩序の管理と治安の維持に利用し、生物学的な驚異としての階級の敵を排除するようなシステムを形成することになる。