フェーゲリン・アレント論争について

ありがたいことにフェーゲリンに興味を持っている方がおり、トラックバックをいただいた。その中で、フェーゲリンアレントの論争について少し触れられていたので、その論争の詳細を、少し前に書いた文章を多少手直しして論じたいと思う。

ちなみに、この論争の全様は The Review of Politics 1953:15 に記載されており、JSTOR にも挙げられているので、アクセス可能な人はそちらを参照するとよい。

フェーゲリンは「現象面での差異を無視する」か

寺島俊穂は、著書『政治哲学の復権』の中で、フェーゲリンが現象面での差異を無視する、という批判(ほかの諸批判とともに)を展開する。曰く、「近代に生まれた諸思想を一様にグノーシス主義と捉えることには無理があ」り、「そのことを示しているのが…フェーゲリンアレントの論争である。」そこでは、「アレントが批判しているように、フェーゲリンの議論は全体主義の理解としては、現象間の差異を無視し、政治現象を本質論的・超越的に単純化している(寺島 1998:144-145)」と寺島は指摘している。この論争を詳細に検討することで、この寺島の認識が間違っており、かつ、当初の寺島の主張を支持するほどの十分な根拠には到底なりえないことを示す。

第一論文

この論争は、1953年のThe Review of Politicsに記載された三つの論文によって成立している。一つ目はフェーゲリンによるもの(第一論文)、二つ目はそれに対するアレントの反論(第二論文)、そして最後にフェーゲリンによる結語(第三論文)である。第一論文は、『全体主義の起源』の構成に触れた後、その「理論的な欠陥」について述べるという構成となっている。その欠陥とは、意識のレベル、即ち精神がどのような状態にあるかということを無視してしまっては、全体主義について正確に語ることができないということを、アレントは理解しているにも関わらず、分析にそれが反映されていないということである。ここにはフェーゲリンの歴史哲学があわれている。「もし行為がある状況に対する人間の返答として理解され、そして、その返答の複数性がその状況そのものではなく人間本性のポテンシャリティに根ざしていると考えられなければ、歴史のプロセスは閉ざされた流れになり、ある時間軸上の点が、未来の経過の包括的な決定因であるということになってしまう。(Voegelin 1953:73)」ナチス的な全体主義の原因は、単に国民国家の制度的な危機に求められるべきではなく、むしろ人々をそのような政治的な運動へと誘っている意識のレベルへと議論を広げる必要がある。「全体主義的運動は産業的な変容によって社会的害悪を癒そうとするのではなく、むしろ人間本性の変容を通じて終末論的な意味での千年王国を作り出そうとする(Voegelin 1953:74)」のだから。この事実をアレントは理解しているはずである。けれどもアレントは、この本性の変容が、「試行錯誤」を通じて果たされるだろうと言う。しかし、「「本性の変容」は語義的な矛盾である。」ここにおいてフェーゲリンは、アレント全体主義者と共有している点を指し示しているのだ。どちらも将来のある時点で、人間本性の変容が起こりうるということを示しているのだから。

第二論文

これに対して第二論文でアレントが行う反論は次のようなものである。まず彼女は、この著作が全体主義の「起源」を指し示さないものであることを認める。それは、「全体主義へと結晶化していった諸要素に関する歴史的な記述」、および「全体主義的運動と支配そのものの基本的な構造の分析(Arendt 1953:78)」を提供するものである。第二に(これは寺島がそれをもってフェーゲリンを批判するところであるが)、全体主義自由主義の区別は、「自由主義者全体主義者ではないという事実(Arendt 1953:80)」によって担保されている。アレントは、「知的な親和性や影響からではなく、事実と出来事から出発する」ことが、自分とフェーゲリンを分ける最大の点であると指摘し、全体主義はその前身とは全く違うものであるし、宗教の代替物でもない、と述べる。第三に彼女は、フェーゲリンが『政治の新科学』において、プラトンアリストテレス的な魂の理論の重要性を持って「精神psycheの発見以前は、人間は魂を持っていなかったといってよいかも知れない」と言っていることに注目し、同じように、「全体主義以後、人間は魂を失うかも知れないとおびえる理由がある」と言えるのだ、と言う。

第三論文

第三論文は非常に短い。フェーゲリンは、二人の答えようとしている問いは同じだという。ここでは、それをおそらくそのまま引用することが適切であろう。

それは歴史における本質の問題であり、政治的運動に類する現象をいかに定義し、その範囲を定めるかという問題である。アレント博士は、彼女の境界線を、彼女が歴史の事実的な水準であると考える場所に引き、「全体主義」に類する現象の、はっきりと見ることのできる複合体に到達した上で、そのような複合体を、究極的で本質的な単位として捉えようとする。しかし私はこの方法をとらない。その方法は、歴史における運動の自己形成は、制度的にもイデオロギー的にも、理論的な形成物ではない、という事実を無視してしまうためだ。探求は不可避的に現象から始まるが、政治科学における理論的に正当化可能な単位の問題は、歴史の中に投げ込まれた単位をそっくりそのまま受け入れることによっては解決されないのである。何が単位であるかは、哲学的人類学によって供給された原則を歴史的な素材に適用したときに明らかになる。そこにおいては、歴史の舞台においては厳しく対立している政治的な諸運動が、本質の水準においては近しい関係にあることが証明されるだろう。(Voegelin 1953:85)

まとめ

以上の論争の経緯を示すことによって、寺島がそれをもってフェーゲリンを批判しようとした「現象面の差異の無視」は、実はそのまま、「何をもって政治的な現象を定義し、指し示すのか」という、この論争の本質的な問いに関わっていることが示されよう。アレントは、「自分は政治的な事実から出発しているのだ」と自らを位置づけ、一方でフェーゲリンを「哲学的な親和性や影響」から出発していると暗に批判する。しかしフェーゲリンの反論は、出発点は同じだと指摘する。だれしも探求を行う際には、「現象」─出来事や事実から出発せざるを得ない。けれどもそこにとどまっていては、結局のところ何がそれらの本質であるのかを理解することができないのである。これは単なる「単純化」でもなければ、「還元」でもない。むしろ事態は複雑化している。自由主義者であることと全体主義者であることは、一見相互に排他的な関係にあるように見える。しかしこれは単に自己による定義づけである。アレントの例を挙げていえば、自由主義者が「私は全体主義者ではない」ということは当たり前であり、逆もまた真である。けれども政治学の役割はそれらの象徴体系をそのまま鵜呑みにすることにあるのではなく、むしろそれを外から分析することにある。そしてそうなった場合には、その意識の形態、彼らの状況に対する返答の仕方は、実のところ非常に似通っていることが示されるのである。そう考えれば、この論争は、フェーゲリンアレントの行っている「探求」の深度の違いを示すことはできても、寺島が言わんとするような、近代の諸思想をグノーシス主義として捉えることの無理を示すものとは到底ならない。そもそもこの論争においてアレントは勝利したわけではないのだから。