フェーゲリンにおける「想像力」の問題

またフェーゲリンに関する記事。最近はずっとフェーゲリンの思想について考えているので、仕方のないことなのだが、すっかりフェーゲリンフーコーに関するブログになってしまっている。

どうでもいいけど、「クリスマス」の「マス」は「誕生日」の意。聖ミカエルの誕生日は Michaelmas である。Happy Holidays!

想像力は否定的なものか

さて、フェーゲリンにおける「想像力」の問題。彼は人間が理性によって世界を把握しようとするとき、その営みを様々なことばで表現しようとしている(例えば思索 speculation や哲学 philosophy のように)のだが、それが失敗する際に使われることばが「想像 imagination」なのである。例えば「第二の現実 Second Reality」について論じた「現実の消滅 The Eclipse of Reality」における最初の文章。

人は想像の行為によって自らを「自由に刑に処されている」自己へと縮減することができる。
By an act of imagination man can shrink himself to a self that is "condemned to be free." (p. 111, CW28)

ちなみに「自由の刑に処す」というのはサルトルのことば。これが定訳なのだけど、実際には condemned to be free (フランス語では何というのか知らないが)はもっとおどろおどろしい響き。自由になるような呪いをかけられているような、そんな響きだ。

後、フェーゲリンはこのままサルトル批判のことを言うのだが、それはちょっと足早ではないかと思う。そもそも「自由」の概念がサルトルにおけるものとフェーゲリンにおけるものとで異なる。サルトルの自由の定義:

The very being of the For-itself which is "condemned to be free" and must forever choose itself - i.e., make itself. 'To be free' does not mean 'to obtain what one has wished' but rather 'by oneself to determine oneself to wish' (in the broad sense of choosing). In other words success is not important to freedom. (BN p.631)

condemned to be free

さて、フェーゲリンにとって第一の現実は経験されたもの experienced reality であって、想像されたもの imagined reality ではない。人間がいかにして経験された現実を理解することができるか、という問題は彼にとって非常に重要で、例えば "On Debate and Existence" なんかで展開されているのだが、その際に使われることばはやはり understanding とか interpretation とかで、imagination は出てこない。ここから考えれば、彼にとって想像力はとても否定的なものだと考えられているようにも見える。

そんな単純な推測でよいのかどうかはわからないので、またもう少し調べてから書いてみようと思う。