ブレナー論争について

以下は、Understanding Society: The Brenner debate revisited の大体訳*1である。

経済史の分野において過去35年間で最も重要な論争の一つがブレナー論争だ。ロバート・ブレナーは Past and Present 誌において、1976年に「前産業化時代のヨーロッパにおける農耕階級構造と経済発展 Agrarian Class Structure and Economic Developmen int Pre-Industrial Europe」という論文を、1982年に「ヨーロッパ資本主義の農耕的起源 The Agrarian Roots of European Capitalism」という論文を発表した。この間及びその後、マイケル・ポスタンやエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリといった著名な経済史家からの内容の濃い返答が発表された*2。ブレナーの理論は、新しい衝動を古くからある問題に吹き込むものだった─即ち、「何が資本主義の出現を導いたのか?」という問題に*3

この論争の中心にあるのは「どのような社会的要素が封建主義の終焉以降ヨーロッパ経済の変容を引き起こしたのか」という問題である。封建主義は停滞的な経済システムだとされた。しかし、16世紀になると物事は変容を始める。イングランドで農業革命のようなものが起こり、技術的イノベーションや収穫システムの変容、土地の生産性の劇的な向上が発生する。マニュファクチュアが始まり、水力、そして蒸気によって動く機械が登場する。田舎から都市への人口の移動が起こる。産業革命が発生する*4。では、結局のところ、この大きな社会的・経済的変容の減員となった社会的要因はなんだったのか?経済構造のドラマチックな変容を進めたのは何か?

経済史家マイケル・ポスタンの提示する理論は単純である。「中世における経済的トレンドの殆ど、特に居住地の増大と減少の背後には、人口の増大と減少の無慈悲な効果を見ることができる(The Penguin Economic History of Britain Vol.1: The Medieval Economy And Society: An Economic History of Britain in the Middle Ages, p.72)。」しかしブレナーはこの見方に反対する:

「異なった財産構造やパワーバランスの元では、同じような人口的・商業的トレンドやそのが、非常に異なったチャンスやリスクを提示し異なった反応を呼び起こして、結果として経済全体としては多様な姿を見せることになる。確かに…異なった財産構造や階級の力のバランスの元では…全く同じ人口的・商業的トレンドが様々な結果を生み出した(Brenner 1982:16-17)。」

ブレナーの議論の鍵となるのは農業の変容がイングランドとフランスでは大きく異なっていたという事実である。だから彼は、適切な因果的説明を行うためには同じような変容を見せるファクターを見つけなければならないとするのである。

数十年の時が経ってからこの論争を眺めてみると、何がその分水嶺になったかは明瞭である。ポスタンやラデュリといった人々が属している学派は人口に関する事実の用語法で経済的変容を説明しようとするが、ブレナーたちは根本的な因果的ファクターは(社会財産関係や政治権力の制度といった)社会的制度と関連すると主張しているのだ。人口学的な理論は病などの人口増減に関連するファクターに注目するが、社会制度的な理論は経済アクター(諸侯、小作人、資本主義的農民)がその中でゴールを追い求めるような制度的フレームワークに注目している。一方は共通で普遍的な人口学的諸力を強調し、生物学的・環境学的理論と同根だが、もう一方は社会理論であって、社会空間における偶然性と変動制を強調している。

ここでは声を上げていないが、重要な理論を提示しているのがダグラス・ノースである。彼がロバート・ポール・トーマスと共に著した「The Rise of the Western World: A New Economic History」は、社会制度理論の枠組みの中に入るような近大経済発展理論を提示している。しかし、ブレナーがマルクス的な議論を利用してローカルな階級関係を定義する制度に因果的な重要性を見いだすのに対して、ノースはスミス的な観点から、特定のインセンティブを生むような財産関係が急速な経済成長へ繋がると指摘する。ノースは、これこそが近代初期にイングランドで起こったイノベーションなのだ、と見ているのだ。資本主義的財産関係の創出こそが経済発展を刺激したのである。

ここで見いだされる因果関係は次のように図式化することができる。

  • 人口増大→経済活動→持続的経済発展(ポスタン)
  • 弱い小作農、強い資本主義的農民→囲い込み、農業革命→急速な農業発展(ブレナー)
  • 財産権保護の増大→利益となる活動へのインセンティブが発生→持続的経済成長(ノース)

今となってみれば、これらの対立が見せかけ上のものであることは明白だ。我々はマルサスマルクスかスミスの一人だけを選ぶべきなのではない。経済発展は一つの支配的なファクターによって引き起こされるわけではないのだ。これらすべての要因がヨーロッパの経済発展で役割を演じており、これら以外のものも考えられる*5とするべきなのである。また、それぞれの大きな要因(人口、価格、財産関係)も様々な要因の複合体であって、それぞれ相関しあう。だから、持続的経済成長のような大きなアウトカムに対して、こんなに単純な因果関係を見いだすべきではないのだ。

勿論、この論争のすべての熱狂が、マルクスマルサスの対立から来るわけではない。もう一人の重要なマルクス主義経済史家のガイ・ボワとブレナーの間にも大きな相違がある。ボワの 「封建制の危機 Crisis of Feudalism (Past and Present Publications)」は1976年(ブレナーの第一論文と同じ年)に出版された。ボワの議論は資本主義に関する古典マルクス主義的な主張と同型である。マルクスは利益率の低落から資本主義の危機を認識したが、ボワは封建的な徴税率の低落から封建制の危機を読み取っている*6。ボワは、ブレナーを理論に重きを置きすぎているといって批判する。ブレナーは根本的な説明としての階級闘争へのコミットメントから論を始めており、英仏における農民の生活の際という事実は後から加えられたものだ、と彼はいう。むしろエビデンスの注意深い評価を通じて歴史的状況の複雑性を立ち上がらせねばならない、とボワは主張している。「ブレナーの思想は、実は、一つの原理に従って形成されている。理論的一般化が歴史的資料の直接的検討より先立つのだ。」そして、史料の語ることに耳を傾ければ、フランス農民の抵抗力よりも、封建的徴税の低下こそが、フランスで起こったことに対する説明になることが明らかだ、とボワはいう。

まとめれば、ブレナー論争の重要な結果は、社会的因果関係の問題に対する関心を再度高めたことである。ブレナーと他の論者はこの時期における経済変動を導いた因果関係のメカニズムについての理論を発展させようと多くの努力を払った。そして、振り返ってみれば、この論争における多くの労力は、経済発展の大きな変動を説明する唯一の支配的要因を特定することができる、という誤った前提から出発してしまっている、という事も見えてくる。このような議論はもう指示され得ない。今日では、歴史家たちはむしろ殆どの大きな歴史的プロセスの中に内在する原因の複数性と地理的差異を認める方向にある。ボワのアドバイス詳しい歴史研究に大きな理論を持ち込みすぎるな─は、常に良い忠告なのだ。

*1:だいたいあってる!くらいの訳

*2:その中で最も重要なものは、The Brenner Debate: Agrarian Class Structure and Economic Development in Pre-Industrial Europe (Past and Present Publications)に納められている。

*3:モーリス・ドブは1963年の「Studies in the Development of Capitalism」で同じような衝撃を与えた。ブレナーは、「Dobb on the transition from feudalism to capitalism」の中でドブ論争について議論を行っている。

*4:マルクスは『資本論』の中でこの多くを論じている。「原始的蓄積」については以前のこの記事も参照。

*5:例えば、ケン・ポメランツはアメリカにおける自然資源、エネルギー源、強制労働といった搾取を、西欧の経済発展の枠組みに取り入れている:The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy (Princeton Economic History of the Western World)。また、環境変動の議論もここですることは可能だろう。

*6:ボワの別の本、The Transformation of the Year One Thousand: The Village of Lournand from Antiquity to Feudalism に関するクリス・ハーマンによるレビューも面白い。