日本辺境論とその批判

この間も書いたが、日本辺境論に対する批判について少し頭の中で整理できたので書く。
フェーゲリンの「断絶」に関する論文がさっぱり進まないので、アルパードとメールする。未だに彼の名字をどう日本語表記すればよいのかわからない。そもそもどう発音すればいいのかさえわからない。ハンガリー人で、Szakolczai。わかる人いたら教えてください。

Japan as territorial liminality

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論に対して、「科学的ではない」という批判は可能だが、有効ではない。なぜなら内田はそもそもその科学性に価値を見いだしていないからだ。

内田樹は、自らの言説が現実と近いか否かについて対して注意を払っていない。重要なのは、それが使えるかどうかだ。

坂本龍馬が「ほんとうは」どういう人だったのかということには歴史=物語的には副次的な重要性しかない。
私たちが自分たちの国民的アイデンティティとして、それに基づいて思考し、行動するのはいつだって「歴史的事実」そのものではなく、「歴史的事実として選択された『物語』」だからである。
「ほんとうは何があったのか」を知ることよりもむしろ、「『ほんとうは何があった』ことに私たちがしたがっているか」を知ることのほうが切実なのである。
坂本龍馬は私たちが「近代日本人の原点」として、国民的な合意に基づいて選択したアイコンである。

坂本龍馬フィーヴァー - 内田樹の研究室

これは坂本龍馬に関するコメントだが、ここには彼の物語に対する基本的な態度が現れている。(そういえば、『現代思想のパフォーマンス (光文社新書)』なんていう本も出していたっけ。)

本当は何があったのかを厳密に知ることは誰にもできない(大体こういう事があったんじゃないか、と推測することはできても)。ことばはすべてをキャプチャできるような大容量のストレージではないのだ。だから、内田の態度はある意味で正しい。イストワールとはそういうものなのだ。

historiogenetic mytho-speculation contra noetic speculation?

これを無理矢理フェーゲリンにつなげると、historiogenesis という概念になる。実はこれが「断絶」の最大の原因。しかしこれを批判的概念として利用してしまえば、もはや線形の歴史を語ることはできなくなる。だから晩年のフェーゲリンは超越的なものがいかにして経験の中に現れるか、という話しかしていない。物語をシーケンスで語ることが不可能になるからだ。でもこれ、やっぱりデッド・エンドのような気がする。

追記

http://www.firstprinciplesjournal.com/articles.aspx?article=443&loc=fs には、「哲学者の使命は厳密に正解となるような象徴体系を提供することではなくて、だいたいあってるくらいのものを時代状況に応じてみんなに提供することなんだよ!」って書いてあった(超俺解釈)。これ正しいと思う。