ねじれ…

メモ

学部生の頃に書いた文章のサルベージ第二弾。こんなことを考えていたのだ。問題の根底は近代性そのものに、無限の上昇の夢に、自らの暴力性の無視にある…おや。この文章は僕がエリック・フェーゲリンを読み出す前に書かれたものだが、既にそこにはフェーゲリン的関心が見え隠れする。人類学へとディシプリンを変更したのも、こういった意識が根底にあるのだろう。というわけで、再録しておこう。

本文

弱者の側に立つか、強者の側に立つか、という問題があるとしよう。

イードの知識人論の有名な一節を引けば、「知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象 represent されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか」。

彼は続ける:「知識人が、弱いもの、表象=代弁 represent されないものたちと同じ側にたつことは、わたしにとっては疑問の余地のないことである。知識人とはロビン・フッドかと皮肉られそうだ。けれども、知識人の役割はそれほど素朴なものではなく、またロマンティックな観念論の産物として用意にかたづけられるものでもない。わたしが使う意味で言う知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。」

しかしこれは、サイードだからこそ吐けた台詞と言えなくもない。たしかに過去「第三世界」と呼ばれた地域においては、毎日のように人が飢えと貧困の中で死んでゆくという。しかし、だからといって、私が彼らを represent することができるだろうか?

問題はねじれている。餓え、苦しみ、死んでゆく人々の側に立つこと、それがわたしの願いである事は間違いない。しかし、彼らを搾取しているのはわたしではないだろうか。文明を憎悪し、資本を忌み嫌ったとしても、結局わたしがそれによって生かされていることは変わりない。わたしは弱者の側に立ちたい。だが、わたしの環境がそれを許さないのだ(Yo soy yo y mi circunstancia)。

突破口は未だ見つかっていない。考えてみれば当たり前の話なのだ。世界の根底には暴力がある。権利があるかどうかなど関係なく、はじめから搾取によって成り立つ世界の中にわたしたちはいる。この惑星で生まれ、生き、苦しむ人々を represent するのだ、などと言うのは傲慢でしかない。彼らの人権を守ろう、介入し、暴力をやめさせ、正しい世界を築こう…しかし、その欲望は世界を改変しようとする近代性そのものに根ざしているのではないか?

だからといって、弱者の側に立つ事を諦め、勝利をむさぼることができるほど、わたしは鈍感にはなることができない。それはこのゲームの中では負けるということだろうし、わたしは負ける事が大嫌いだけれども、それ以上に誰かの苦しみを放置する事が大嫌いだからだ。

だからわたしは道なき道を行こうと思う。

まだ道にはなっていないけれど、ここは以前誰かも通った道のりの筈だ。