レイシズムの系譜學へ向けて

Stoler, Ann Laura. 1995. Chapter 3, Toward a Genealogy of Racisms: The 1976 Lectures at the Collège de France. In Race and the Education of Desire. London: Duke University Press.

ミシェル・フーコーによる1976年の講義『社会は防衛しなければならない』はレイシズムの系譜學という視点からも非常に重要である。本章は一義的にはこの講義へのイントロダクションであり、「レイシズム」という観点からのその読み替えでもある。フーコーはここでヨーロッパの内部での民族間の抗争と征服から人種に関する言説が発生することを指摘するが、そこに帝国主義の物語は入ってこない。ストーラーが指摘するのは、第一に、ネーション、市民権、そして人種の概念の交錯をフーコーが捉え切れていないこと、そして第二に、ジェンダーの問題がこの分析に含まれていないことである。この観点からは、19世紀的な人種主義の言説において白人と「有色人種」との「混血」が問題になっていたことや、女であることがブルジョワジーにとって何を意味していたかを把握することができない。

  • 数少ない『社会は防衛しなければならない』に関するコメンタリ。特に人類学者によるそれなどこれ以外にあるのだろうか。まだコレージュ・ド・フランス講義が本になっていない頃に態々テープレコーダーを聞きながら書いたというのだから驚かされる。
  • 批判は大筋で当たっていると思うが、ネーションと人種概念の関係性については、フーコーも捉えているのではないかな?もう少しこの論点は発展できそうだ。
  • フーコーのいう「規律権力」そして「生権力」は段階論ではない。死なせ、生きるに任せる権力として「主権」が、生かし、死ぬに任せる権力としての「生権力」に「取って代わられる」分けではない。法的─哲学的言説においては常に主権は問題になり続けているし、フーコー自身が指摘するように、ナチス社会こそは「生権力を全般化した社会であると同時に、殺す主権的権力を全般化した社会」なのである。問題は主権、規律権力、そして生権力の重なり合いなのだ。
  • この講義で語られていないことは第一に歴史的─政治的言説の植民地への転写、そして第二に東アジアへの転写である。すなわち、フーコーはナチズムについて、そしてソビエトについて語ることはできるが、イギリス及びフランス、そして日本の帝国について語ることができない。現代東アジアについて生権力の語法で語るためには、まず、この問題を片付ける必要がある。
  • ところで、この歴史的─政治的言説に対するフーコーの評価は多義的である。それはもちろん生物学的転写によってナチズムへと変貌するのだが、一方で階級闘争への転写によってマルクシズムにも変質する。哲学的─法的言説と比べてみたとき、彼は寧ろこの言説を積極的に評価するようでもある。