滿洲國の矛盾

Duara, Prasenjit. 2002. Sovereignty and Authenticity: Manchukuo and the East Asian Modern. Oxford: Rowman and Littlefield Publishers.

Chapter 2: Manchukuo: A Historical Overview

第二章は、滿洲國をいかにして東アジア近代史の中に位置づけるかと云うことを問題意識としたちょっとした概説。現在中国の「東北」として位置づけられるこの満洲という土地が明確に漢人のものとして意識されていくのは19世紀末から二十世紀初頭にかけてからであって、十九世紀の半ば頃まで清朝は封禁政策を取って漢人満洲への移民を禁じており、満洲族文化の保全を気にかけていた。日本の内藤湖南のような東洋学者が明確に「支那」と「満洲」を区別しているのもこうした理由からである。リットン調査団報告書に対する松岡洋右の主張なども、こういった同時代的認識に基づいている。日本と満洲の関係性を考える際、我々は、それが何故単なる「植民地」としてではなく「国民国家」として成立したのかに注意を配らねばならない。五族共和は単なるプロパガンダとして理解されるのではなく、寧ろ、理念が現実的な力を持つことを認めた上で、その理念と実践との乖離─例えば日本人労働者と漢人労働者の対偶の差異─にこそ目を向けなければならない。

滿洲國の統治的実践はフーコー的な統治性の議論の文脈に位置づけて認識しなければならない、とデュアラは言う。それは一方で多くの暴力を生み出したが、他方で開発国家の顔をも見せる。それが自らの人民を操作さるべきひとつの「人口」と捉える限りにおいて、それは時には削除され、時には付け足される様々な変数の集合体としてあらわれる。この近代的統治性の試みは確かにこの大陸のどの国家よりも「成功」したものではあったが、同時にそれはナショナルな主権という真正性に欠けていた。リットン調査団に代表されるヨーロッパの列強は結局のところ満洲がひとつのネーションであることを認めなかった。第一にこの国際システムに認められた主権の欠如、そして第二に、王道楽土をうたいながらも日本人に最終的な優越性を認め続けた内的な矛盾こそが、滿洲國の抱え込んだ時限爆弾であったのである。