動物だって言葉を話す

Nasady, Paul. 2007. The Gift in the Animal: The Ontology of Hunting and Human-Animal Sociality. American Ethnologist. 34(1): 25-34.

狩猟採集を行う人々が生き物を殺すとき、それが動物との交換関係の上に成立していると考えられていることは広く認識されているが、人類学者はそれを単なる「文化的構築物」と捉えてきており、メタフォリカルな意味しか与えてこなかった。しかし、筆者は、そこにはリアルな意味があり、この様な発想を森林管理の実践に取り入れなければならない、と主張する。かつて人間とほかの動物の間には対等な関係性が存在しており、狩人は獲物を得るために動物を騙さなければならなかったし、そのために魔術を使った。そこには一方で互恵性の関係が、一方で支配の関係が見られるが、これら二つは決して矛盾するわけではない。

オジブウェ族が「動物と人間は交換を行っている」というとき、それはメタファーではなくてリアルな社会関係として理解されなければならない。近代的な科学者であるインゴールドは、動物は理性的な熟慮を行わない故主体的に人間と関わることなどはできない、という。意識と思考は異なり、人間は動物とは違う。社会は言語的な思考を行う人間にのみ許されたものであって、動物は野蛮な自然的関係性しか構築できない、というわけである。けれども考えてみれば、人間が行う大半の行動は言語に基づいているわけではない。そして動物もまた言語を用いないわけではない。彼らは確かに英語は話さないかも知れないが、「我々の言葉は話す」、とオジブウェ人は言う。ならば我々は、「交換」というもの、「社会」というもの、「動物」というものについて考え直さなければならない。

感想

  • 「生き物を殺すとき、その苦しみについて考えるのは間違っている。動物は自らを与えてくれたのだから。ただ、その恵みに感謝すべきだ。」という発想は少なくとも私には自然に感じられるのだが、興味深いのは、筆者がそれを「最初は理解できなかった」ということである。すなわち、動物を殺すことが悪である、なぜならそれは非対称的な関係性を基盤にしているから、という発想から簡単には離れられないのである。こういうことが議論になること自体が、「西洋的存在論」の強力さを描き出している。
  • "Very few Euro-American scholars are willing to accept the proposition that animals might qualify as conscious actors capable of engaging in social relations with humans." 上座部佛教徒を目の前にして「こいつらは仏教の原則に従ってないから仏教徒じゃない!」と言い出したときも相当ビックリしたが、今回も空いた口が塞がらない感はある。
  • そもそも「動物」という概念は不自然なものだ。