エリック・フェーゲリンについて

大学は学園祭期間中。全く関係なく家で論文を書いている。エリック・フェーゲリン(1901 - 1985)の政治思想についてだ。

フェーゲリンは、その思想の重要性にもかかわらず、日本においてはほぼ無視されている思想家だ。ウィーン大学で法学、政治学、哲学を学び、アンシュルス以後アメリカへ渡った*1。ハンナ・アレントレオ・シュトラウスとも交流をもち、アルフレッド・シュッツやフリードリヒ・ハイエクとも関係がある。特にハイエクとは年齢が二歳差で、ともにハンス・ケルゼン門下で学んだ後、ケルゼンの純粋法学に対して痛烈な批判を浴びせるようになる点で一致している*2

フェーゲリンの思想の最大の特徴はなんだろうか。おそらく彼は一言で言い表せることができるような思想家ではない。しばしばシュトラウスとともに「アメリ保守主義」の哲学者としてあげられることが多いが、それはむしろマルクス主義に批判的であることから出てくるものであって、純粋に保守的・右翼的であったわけではないことに注意が必要だ。

彼は近代的な実証主義啓蒙主義自由主義共産主義などを批判して、それらが実はナチズムや全体主義と同根であることを示した。彼が行っているのは常に人間の分析で、言説の分析ではない。自由主義全体主義がいかなる意味で同根なのかは、また、詳しく彼の議論を追う必要もあるだろう。ここでは、彼の哲学が、もっぱら人間の有限性の経験を中心にしていることを指摘しておこう。

有限性の経験。人間は完璧ではない。空間的にも、時間的にも、論理的にも、我々には限界がある。人間は神にはなれない。全てを知り、全てを理解して、絶対的な自信を持って何かの行動を起こす人がいれば、それはすでに人ではない。単に精神的に錯乱しているか、神であるかのどちらかだ。マルクス主義はこの点で誤謬を含む、とフェーゲリンはいう。マルクスは、「社会主義的人間」を、全てを理解する全能の超人として設定してしまった。その結果マルクス主義は、世俗化された現実可能なユートピアへ向けて、人々を駆動するエンジンとなってしまった。それがマルクス最大の過ちである。

このような批判は、前述したようにハイエクと似ている。しかしフェーゲリンハイエクのように市場を超越的なものとして設定することはなく、超越的なものはあくまで実現不可能な点に求められなければならない、と警告する。彼にとって哲学者とは常に「問い」を持ち続ける人である。最終的な答えなどというものはない。だから、哲学がなすべきことは、答えを編み出すことではなくて(もちろん、時代の要請する暫定的な答えは出すことができるだろうが)、問いを守り続けることである。

みたいなことをうだうだと書いている。これが大学生活で最初で最後の日本語で書くまともな論文になるかもしれない。

*1:追記:しかし彼自身はユダヤ人ではないことに注意が必要。

*2:ちなみにハイエク政治学と法学の博士号をウィーン大学で取得しているが(フォン・ミーゼス門下)、経済学博士号を取得したのはロンドン大学からで、もっと遅くになってからだ。