日本辺境論は人類学である

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

この前『構造主義的日本論 こんな日本でよかったね (文春文庫)』を出したばかりの著者が送る日本論。しかし、これは久し振りのヒットだ。

これまでのところの、ウチダくんの作品の中では、白眉といってよい作品になっている。

同時に、これまでのところの、日本文化論の最高の到達点と示しているといってもよいと思う。

http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/?p=588

という評も正しい。ここ10年で内田樹が到達した点として理解すべきだ。

内田樹は問いを立てることがうまい。その後の答えは問いによって非常に強く制約されている。多くの場合、答えだけ聞いてもその意味内容は分からない(「42」とか)。彼は自分の知的パフォーマンスを最も高めるような問いを先駆的に知っているのではないだろうか笑。

構成

  1. 日本人は辺境人である
  2. 辺境人の「学び」は効率がいい
  3. 「機」の思想
  4. 辺境人は日本語と共に

以上四章からなっているが、第一章がとても長く、何故日本人を辺境人として理解することが大切か、を詳しく論じた形になっている。その後、辺境人としての振る舞い、思想はどのようなものか、を追っていく。

人類学として

さて、タイトルに「人類学だと思う」なんて掲げてしまったので、何故これをそう理解すべきかという話をしなければならない。

まずこれは、「日本人」というものが存在する、というところから物語を始めている。
そして、「日本」について我々は語ることができるのだ、と前提する。

この開始点は読者に多くのものを要求している。厳密に言えば日本というものは物理的世界の中には存在せず、様々な人々の集団の中に、一つの象徴として存在している。だからこれは、現在自分が日本人であると思っている一億ちょいの人々の中で、日本という象徴がどのようなものとして理解されているのか、という事柄についての人類学的記述なのである。本書が極めてアクロバティックであるのは、その記述が内部から、日本人によって為されている点だ。この様な営みによって内田は、日本 / 日本人という概念を取り上げ、説明しながらも、それを「改変」しているのだ。

内田はここで書かれていることは全て先達からのコピーであり本書にユニークなものなど何もないと云うが、それは事実ではない。人は完全に何かをコピーすると言うことはできない。人が何かを模そうとするとき、独自性はそのコピーの失敗として、厳密性の損失として表れる。この様な継承とその失敗が重用なのだと私は思う。

読み方

ここで「日本人」は二つの意味で使われていることに注意すべきだと思う。一つは実際に日本列島に構築されたある政治社会の中で生き、死んでいった(もしくは、死にゆく)人々。そしてもう一つは、彼らの頭の中で理解された、一つの象徴、概念としての「日本人」である。前者は現実に、後者は物語に属する。そして前述のように、本書は前者の作り上げる後者の分析となっている。

また、ここで展開されている「辺境性」という概念は、人類学における territorial iminality に非常に近いもののように思える。接続可能。

批判

本書に対してはやはり、科学的社会科学の方面から批判が可能である。例えば以下のような批判がネットで見つかった。

聖徳太子の親書にはじまり、憲法九条と自衛隊の問題にいたるまで一貫する日本独特の政治的狡知であると内田先生が主張する「知らないふり」を例に取るなら、個々の事例においてはたしかにそのような狡知がはたらいているように見えなくはないとしても、それが不変の辺境人的本質の発露であると主張するためには、同様の事例がほんとうに他国に存在しないかどうかを検証しなければならないのはもちろんのこと、それが10%にすぎない文化差による影響なのかどうかについても慎重な検討が必要となるはずです。

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うん、社会科学的にはその通りだ。

けれども、内田にとってそのような検討がどこまで重要だろうか。上記のように、問題となっているのは集合として(人口として)捉えられるような日本人ではない。むしろそれは、概念としての「日本人」、物語としての「日本人」なのだ。戦後米国で力を得るような行動主義や科学的社会科学の功罪も検討しなければいけないが、そもそも本書にとってそのような「実験」などは必要ではない。

民族的な特異性などというものは先見的には存在しない。しかし、古代から近世までの中国、近代のヨーロッパ、そして戦後のアメリカとそれぞれの時代における日本との間の心理学的な関係(吉本隆明の言葉を使うなら、「関係の絶対性」)というものはほとんど動かざるものとして説明することが可能である。

http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/?p=588