どこで生きようというのか

今日、私は、ある日系ベトナム企業の採用面接の手伝いをした。ベトナムでもっとも優秀な大学を出て、コンピュータ技術・管理能力に優れて、英語・日本語がペラペラの若者たちが、6万円から9万円ほどの月給で働いていた。君たちの本当の競争相手は、こういう新興国で猛烈に勉強している若者たちだ。どうか「就活」などという愚にもつかない通過儀礼のために、君たちの貴重な若き日々を浪費しないでほしい。世界の企業に求められる技能を身につけ、がっぽり稼いで、自由な生き方を手に入れようじゃないか。

15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)

こういう言説はちょっと見過ごせない。

「ここでは生きていけないから、どこか別の場所へ行こう。そこにはきっと楽しい生き方がある。自由がある。さあ、荷物をバッグに詰めようじゃないか。」そう呟いて君はいったいどこへ行こうと言うのだね。「ここはロードスじゃない。下らないものばっかりある。ここでは飛べない。」

違う。ここがロードスだ。ここで飛べ。今すぐに。

結局君は今、ここでしか生きることはできないのだ。

それでも行くというならば、行けばいい。けれどもどこまで行っても、君は追い求めるものを見つけることはできないだろう。そうして君は帰ってきて、どうすればよいかをもう一度考え直すことになるだろう。

神話の中のインディアンのように、私も大地の許容する限り遠くまで行ってみた。地の果てに到達すると、私は生命や物体に問いかけ、神話のインディアンの少年と同じ幻滅を知った。「少年は涙をぼろぼろこぼしながら、そこに立ち尽くした。祈り、そして呻きながら。だが、何の神秘的な音も少年には聞こえてこなかった。まして、呪力を具えた動物たちのいる神殿に、眠っている間に連れ去られるべく眠り込みもしなかった。彼には全く疑問の残る余地はなかった─どこからの、いかなる力も、少年には与えられなかったのだ…」

 ─ クロード・レヴィ=ストロース