釣りとマルクス

2ch的な意味の釣りではなく。

パリ・コミューンマルクスの問題は難しいのだけど、大筋でいうなら、社会主義というのは資本主義、ここでは市場の上に成立するものだから、市場のもつコミュニケーション機能を止揚した形で行われる。マルクスでは、市民のassociationが構想されていたはず。

まあ、ここがエンゲリスムとマルクス思想がごっちゃになってしまってややこしいところではあるのだけど、基本的に資本論の枠組みでは市場が完全に機能すればそれ自体が経済における十分なコミュニケーション機能を持つという点で、古典派の枠組みとそれほど違いはない。まあ、ここは異論は多いかな。

いずれにせよ、マルクス市民社会・市場社会というものの止揚として社会主義を構想していたというのが基本。

ちょっと野暮なツッコミしとくかな - finalventの日記

これを読んでふと思い出したので、マルクスがどのような社会を構想していたかをめぐって論文を一つ紹介。

漁師になることと釣りに行くこと

Booth, William. Gone Fishing: Making Sense of Marx's Concept of Communism. Political Theory (1989) vol. 17 (2) pp. 205-222

ちょっと(かなり?)前に読んだ論文だけど、わかりやすいし面白いのでこれをざっくりまとめる。マルクスの考え方を知るのにはいいかもしれない。JSTOR アクセスできる人は原文を読むのがベスト。

  • マイケル・オークショットっていう保守主義の政治哲学者がいる。イギリス人。彼が『保守であることについて On Being Conservative.pdf 直』っていうエッセイの中で、「釣りっていいよな!これこそ保守精神の現れ」と書いている。釣りってのは何しろ明確な目的がない。魚が釣れればいいけど、別に釣れなくても生きていけるし、売る訳じゃない。釣れたら釣れただけ自分でいただいちゃう。ここには時間の余裕が見られるし、技能はその対価ではなくて純粋にそのスキルのすごさだけで図られるし、云々。

共産主義社会では、一つの活動領域だけを一人が占拠するって事がないし…社会が生産をうまく適当にやっちゃうから、今日と明日で別のことができるし、朝狩りをして、昼釣りをして、夕は家畜を育て、晩飯の後は批評をするなんてこともできちゃう。自分でものを考えてるみたいだろ。しかも、狩人にも漁師にも羊飼いにも批評家にもならなくていいんだ。(大体訳)

  • というわけで釣りの話をしようと思う。

漁師はつらいよ

  • 釣りに行くってのは他の色々な活動から一つ気楽に選んだ結果だ。別に釣りをしなければいけない訳じゃないし、気が向いたら哲学書を開けてもいい。釣りをするって事と俺の存在はさしあたり関係ない。どれだけ釣りが好きでも、嫌いでも、別にいいわけだ。
  • けれども漁師になるのは大変だ。これはつまり、漁をするっていう活動がイコール俺、な状態ということだ。俺イコール俺が果たす役割。しかも俺が果たす役割は自然だとか経済プロセスの結果決まってきて、俺の決定じゃない。
  • マルクスによれば、資本主義化では労働は価格調整プロセスに飲み込まれる。例の M-C-M' ってやつだ *1。この M'、さっきよりも多いお金の差額はマルクス的には労働者をこき使うことで生まれてくる。お金はぐるぐる回ってどんどん増える。労働者はどんどんこき使われる。ここで動いてるのは人間じゃなくて、価値、お金だ、ってことになる。
  • この運動が「資本」だ。これは階級を作り出す。資本家だ。けれども資本家ってのもかわいそうな奴らで、単なる「人間化された資本」に過ぎない。資本が主体で資本家はその手足。勿論労働者もそうだ。資本家も労働者も資本の奴隷に過ぎない。
  • 工場はこの大きな運動の小さいバージョンみたいなものだ。その中で働く労働者たちは自分ではなくて何かより大きな運動に動かされていて、部品の一つに過ぎない。
  • 工場とそれを動かしている M-C-M' の運動の中では、個人なんて関係ない。誰も彼もみんな運動の中の部品に過ぎないのだ。資本家だろうが漁師だろうが何だろうが、経済プロセスに飲み込まれてしまう。階級の一部になるって事はそういうことだ。
  • マルクス的には、階級をなくすっていうのはつまり、人間を個人に戻して、自分で自分のことを決められるようにしてやる、という事なのだ。

暇つぶし

  • 時間ってのは人間が生きていく上でどうしても乗っからなければならないものだ。財産ってのは昔やった労働の成果なんかじゃなくて、これからどれくらい自由に時間を使えるかって事にある。マルクス的にはね。時間が自由に使えるってのはつまり、自己決定ができるって事だ。自然とか階級構造とかで色々と時間には制約がかかってくる。特に資本主義社会では自然が弱い分経済構造がかなり人々を縛ることになるわけだ。
  • 資本ってのは運動だ。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる回って、時間を食いつぶす。「時は金なり」。このせいで、資本主義の発展で短くなるはずの労働時間は、逆にどんどん長くなる。確かに必要な労働時間はどんどん短くなっているんだけれど、資本はもっと利益を生み出すことを優先するので、空いた時間でさらに働くことを要求する。それは資本主義に不可避的にくっついてくる法則だ。
  • だから、資本主義のもとでは、過労は重大な問題になる。英語では労働者のことを「フルタイム」とか「ハーフタイム」とか言ったりするけど、ここでは労働者は「時間」として捉えられているのだ。要するに資本は時間を自由にしたけれど、同時にその時間を支配して、利益を生み出すような運動に利用してしまう訳だ。
  • その時間を取り戻すことがマルクスにとっての課題なのである。だから、自分で考えているように釣りしたり狩りしたりできるって素晴らしいよね、って言う話になる。

みんな漁師

  • 資本は自分の見方でしか世界を見ない。資本は自然とか人間とか時間とかをみんな支配してしまう。これから、コミュニティがどう資本によって変容させられるかを見たいと思う。
  • そもそも市場というものは今までに存在しなかった労働者を創りだすことによって成立する。それは生産の手段を人々から切り離すことによって、労働しか売る者を持たない人々をつくりだす。
  • この労働市場という世界では金銭が全ての人間関係の尺度になり、血縁といったものは消滅していく。これは一見「自由」なものに見えるが、その根底にあるのは選択ではなく暴力なのだ。
  • 重要なのは M-C-M' という半ば無限に続くかのように見えるプロセスであって、労働者は資本家たちはその中の歯車に過ぎない。そこには自由意志など介在する余地はないのだ。
  • 労働市場から工場へ話を移そう。市場で出会った労働者と資本家は工場で実際に働き始める。でもこの工場というコミュニティを動かしているのは人々の意志じゃなくてさっきの資本というプロセスだ。だからこれは自由な人々の共同体なんかじゃないんだ。ここでも労働者たちは単なる「フルタイム」、歩く労働時間でしかない。
  • 資本主義が凄く悪いもののように思えてくるが、一方でそれが伝統的な共同体をぶっ壊してひとつの大きな世界を地球上に創りだしたことが積極的に評価されていることも忘れないようにしよう。国家の境界線だとか伝統的な考え方だとかドグマだとか、そういう閉鎖的なものがなくなっていくのは肯定的なものだ。
  • しかし他方でそれが人間をプロセスや機械に従属させてしまっていることもたしかなのだ。
  • ドイツ・イデオロギーで出てきた個人はどうやら一人でできることしか行っていないみたいだけれど、彼が何か別のことを一緒に他の人としようとしたとき、それはたぶん、資本が彼を駆り立てるからでもそれしか生きていく道がないからでもなくて、自由に協同することになるんじゃないだろうか。
  • 自然にも必要性にも資本にも駆られることなく何かを楽しんでやれたら最高だよね。
  • まとめ。マルクス共産主義社会の理想像は、めちゃくちゃ短くなった労働時間の上に成立する「自由なアソシエーション」なのだ。そこでは人々は自分自身として、何らかの役割を担うことなく人と接することができる。この根本にあるのは、資本主義における最大の悪を M-C-M' のプロセスに見いだすマルクスの姿勢だ。

*1:お金→商品→さっきよりも多いお金