佛教原理主義?

Obeyesekere, Gananath. 1995. Buddhism, Nationhood, and Cultural Identity: A Question of Fundamentals. In Marty, Martin E. and R. Scott Appleby (Eds.) Fundamentalism Comprehended. Chicago: University of Chicago Press, 231-256.

一言でいえば悪文である。

原理主義という言葉が最初に生まれた基督教や、近年益々議論されているイスラームとは異なり、佛教は、スリランカにおけるシンハラ人とタミル人間の暴力的闘争の原因になってはいるものの、教義のレベルでの暴力の肯定や不寛容は見いだし難い。そこで重要になるのがスリランカにおける佛教の歴史を語るマハーワンサである。五世紀に編纂されたこの叙情詩には、シンハラの王ドゥッタガーマニーが、タミル人と戦いこれを打倒したことを明確に正当化する記述が見られる。佛教国としてのスリランカ、サーサナという想像の共同体とそれへのアイデンティティはこの頃から確かに見ることができる。しかし重要なのは、タミル人が常に敵として現れるわけではないことである。マハーワンサにおいて、タミル人は、あるときは敵として、あるときは友として、あるときは王や魔術師として、現れる。当然のことだが、二つの集団の関係は一意ではないし、その境界は歴史の中では常に揺らいできた。
また、植民地主義の影響も無視されるべきではない。植民地化以前の佛教は、その教義に闘争が含まれない故、語の厳密な意味において常に原理主義的であった。しかし、仏僧集団と民衆の間には常に開きがあり、スッタ、ヴィナヤ、アビダマなどのパーリ語経典は、例えばアショーカ王ですら親しんでいたとは考えにくい。出家して悟りを開くことに重きがおかれた上座部佛教では、経典が凡夫から遠ざけられている事には意味があった。しかし一方で、クダッカ・ニカーヤと呼ばれる小部経典は俗世の人々の暮らしについて多くを語っており、パーリ語だけではなくシンハラ語の経典も多く、佛教に関する膨大な民間文献の発展に貢献した。仏僧は、アナッタ、アニッカ、サムサーラなどの佛教概念を説明する際、これらの人口に膾炙した例え話を使って民衆に教えを解いたと見られる。一方植民地化以降の佛教は、新しく軍事力を背景に島に入ってきた基督教に対抗し、相手のように自らを組織化する必要に駆られた。例えばヘンリー・オルコットは積極的に佛教を信奉し基督教宣教団に対抗する西洋人としての役割を引き受けた。しかしオルコットの佛教理解は上に示されたような佛教の豊かさに無知であり、西洋的佛教観に基づいた、基督教的な意味で原理主義的なものであった。1881年に出版された「佛教公教要理」においてオルコットは(彼の牧師の息子としての生まれもあってか)民間信仰を異教の残余物、無知蒙昧の結果であると批判し、プロテスタント的なやり方で「純粋な」佛教のドクトリンを抽出して見せた。ダルマパーラなどによる反西洋的、反タミル的、排外主義的な佛教原理主義は、このように、西洋を通じて初めて生まれることのできたものなのである。

感想

  • 基本的にオベーセーカラの書いたものはあまり好きでない。悪文。
  • 基本的な路線は、佛教のドクトリンそのものは非暴力的であって善であるが、その政治化がまずい、ということ。マハーワンサ然、オルコット然。
  • 少し西洋に責任は押し付け過ぎはしないか。専門家でないのでなんとも言えないが、それでは、オルコットと彼に影響されたダルマパーラ以外の仏僧は、何をしていたのか。彼らはなぜ佛教の非暴力的形態を守ることに失敗したのか。