東アジア、帝国主義、ナショナリズム

Duara, Prasenjit. 2002. Sovereignty and Authenticity: Manchukuo and the East Asian Modern. Oxford: Rowman and Littlefield Publishers.

少し本腰をいれてこの本のレビューを行うことにした。滿洲國についての語りを始めるに当たって、本書が開始点としては適切であろうと思う。

Chapter 1: Imperialism and Nationalism in the Twentieth Century.

滿洲國は東アジアにおける近代 East Asian Modern という主題の一つの結節点であり、様々な意味を帯びている。それは「日中関係史」の中にではなく、「東アジア」という地域の想像と創造の中に位置づけられるべきものである。西洋列強勢力と正面から向き合うことを余儀なくされた東アジアの文明は、新しくヨーロッパから輸入した概念的構築物を儒教的な旧来の政治文化の可知性と融合させることで自らを武装した。

本章で筆者が明確化せんとする点はふたつ。第一に、近代資本主義世界における生存と支配を目指すプロジェクトにおいてナショナリズム帝国主義は歴史的及び機能的に連結されていたこと。すなわち、ナショナリズムは一方で様々な国民国家が互いの領域に対して手を出さないことを推奨したが、同時に、これらの間で競争が行われると云うことはお互いの植民地化及び領域の奪い合いをそのまま意味した。すなわち「帝国主義はこのシステムの論理に内在的であった。」帝国主義ナショナリズムによって正当化され、築き上げられた帝国の強力さはそのままネーションの象徴的威信を意味した。しかし戰間期においては支配される側もまた国民国家の論理によって武装を行い始め、システムへの参加が「文明化」された列強のみに許されるものではなくなった。その結果として帝國主義的ナショナリズムが批判されるようになった。まさに滿洲國が建国されたのはこの時代であった。

第二に、あるネーションの主権性は単に(ナショナリストが主張するように)それがネーションであることそれ自身に由來するものではなく、第一に国際関係というシステムすなわち他の主権国家による承認、そして第二にそれに付随する「世界文化」としてのナショナリズム─すなわち世界は数々のネーションによって構成される「べきである」という考え─によって担保されていること。例えば─中国においては従来リネージもしくは出自を意味していた「族」という言葉が「種族」という(日本から輸入された)漢語となり、そのまま血族集団としての「漢族」という思想に繋がっていくと同時にそれが自然化されその近代性が忘れ去られていったことは、この「世界文化」論と呼応する。東アジアの近代における翻訳の問題も、ここで触れられる。

そして、ネーションは上記のような外部的要因を包み隠し内在化して、ネーションとしての真正性を確立していく。「空虚で均質な時間」としての歴史意識とその主体としてのネーションという考え方─ナショナル・ヒストリーの結晶化─はこのプロセスのひとつである。ナショナルな支配の真正性を高めるために動員されるのは記憶だけではなく、肉体や物品が含まれる。滿洲國が位置づけられるべきなのは、このような支配の真正性を確立しようとする国民国家の言説と実践の中である。

批判

筆者の立場は明確にマルクス主義的であり、資本主義における発展段階としての帝国主義というテーゼをほぼ受け入れているように思われるが、例えば前近代的帝国と近代的帝国主義の差異には余り気を配っていない。デュアラは帝国主義ナショナリズムをひとつの現象として見ているが、私はそれを「ネーションと帝国」というふたつの異なった空間編成原理の間の運動として理解したい。

また、フーコーの統治性概念に所々で触れながらも、筆者は歴史的─政治的言説がそれではどのように東アジアにおいて転写されたのかをきちんと取り扱っていないように思われる。「民族」概念が日本人によってまず訳され中国へと入り込んだという所を指摘しながらも、この概念の問題性をより詳しく追わなければ、この転写の問題は詳らかにできないのではないか。