ポリオントロジカル・コスモロジ

Scott, Michael W. 2000. Ignorance is Cosmos; Knowledge is Chaos: Articulating a Cosmological Polarity in the Solomon Islands. Social Analysis 44(2): 56-83.

面白かった。ソロモン諸島のマキラ島に住むアロシ族は従来首長と戦士、秩序と混沌という二つの存在を基底に持つ世界観を保持していた。基督教の伝播によってその様な世界観は消滅したと考えられていたが、本論考では、旧来のリネージと土地への帰属に対する「無知」と「知識」が、そのまま「秩序」と「混沌」に対応していることを指摘する。即ちポストコロニアルのマキラ島では、あらゆる人間がアウヘヌアではない(サエボボイである)ことによって秩序が保たれており、特定のリネージがアウヘヌアであること、すなわち、旧来の秩序への知識を主張することは、そのまま社会の混乱へつながるのだ。どういうことか。従来、ある土地に対する正統的な帰属を意味するアウヘヌア概念は、その土地へ流入してくる人口をマネージするために重要だった。あらゆるリネージはなんらかの土地と関連づけられており(アウヘヌア)、あらゆる村落は、その土地に政党的に帰属していると考えられているリネージを中心にして、彼らへの関係性において全ての秩序が形作られていたのである。アウヘヌアの首長こそは様々なリネージのネットワークをつなぐ存在として重要であり、人々をある村落において統合する(ダウヘヌア)ことが彼の役割であった。しかし、「悪い首長」がそれに失敗するとき、戦士が表れ、アウヘヌアのリネージに合わぬものを殺して行く。アウヘヌアとリネージの概念は、社会を駆動する非常に重要な概念であったのだ。けれども、英国法が強制され基督教が布教された植民地以後の今日においては、この様な土地に対する帰属のシステムは壊されてしまっている。基督教は各リネージに土地を割り当てる伝統的なシステムを社会を分断する悪癖と見なし、「神の愛」の元にあらゆるリネージが統合されることを主張した。これに対応して取られた戦略は、「もはや誰もアウヘヌアではない。我々はみなサエボボイである。この土地のアウヘヌアであった人々は既に死んでしまった」と主張することである(ところでこれは大きく真実でもある…ヨーロッパ人の到来によってもたらされた伝染病によって原住民人口は激減した)。人々は今でも、自らの帰属するリネージがどの土地に対応しているのかを覚えているが、それを積極的に主張しようとはしない。今、マキラでは、アウヘヌアを主張しないことこそがアウヘヌアにかなったものなのである。これは一見転倒しているようだが、伝統的な存在論に沿ったものでもある。

評、興味深かった点

  • ハワイなどに見られるコスモロジーは一見ソロモン諸島のものと非常に似通って見える。けれどもこの見方は深層構造の分析を通じて反駁される。ハワイの存在論は単一的、すなわち世界を究極的には一つのものと見なしているが、マキラの世界は究極的にポリ存在論的である。人々のコスモロジーを成立させている存在論に目を向けなければ、人類学はその分析を誤ることになるだろう。
  • 文化を破壊され、宗教を唾棄され、土地を奪われてもまだ、彼らは彼らのままである。
  • Monoontology, Polyontology ってどう訳すべきか。
  • 「ニギタマ・アラタマ」はポリ存在論的か、モノ存在論的か。