『秩序と歴史』

以下は、エリック・フェーゲリン「秩序と歴史」第一卷『イスラエルと啓示』で示された研究プログラムの素描の要約である。

Voegelin, Eric. Introduction: The Symbolization of Order, in Order and History, Volume I, Israel and Revelation.

第一巻で提示されたプログラムは、「歴史の秩序は秩序の歴史から現れる The order of history emerges from the history of order」というテーゼから始まる。それは「存在の秩序 the order of being」に関する知見の象徴の差異化=分化 differentiation による深化のプロセスとして歴史を捉えた上で、その差異化=分化の作法を歴史的に再構成せんとするものであった。このプロセスは五段階に分けられた。第一、古代近東に於る帝国組織とその存在形態としての宇宙論的神話。第二、モーゼと「選ばれた民」の預言者たちによる歴史における啓示的存在形態。第三、ポリス及びヘレネーの神話とそこでの秩序の象徴体系としての哲学の発展。第四、アレキサンダー大王移行の多文明帝国キリスト教の出現。第五、近代国民国家と秩序の象徴体系としての近代グノーシス主義の出現。第一巻『イスラエルと啓示』、第二巻『ポリスの世界』、第三巻『プラトンアリストテレス』は、それぞれの段階に対応する形で著された。

第三巻までの思索の基盤は、『イスラエルと啓示』の序論となる「秩序の象徴化 The Symbolization of Order」において最も凝縮された形で提示されている。本序論は、人間の経験と存在についての思索から始まる。フェーゲリンの見る所、人間は独立した観察者ではなく、存在のドラマをそれと知らずに演じている一人の役者である。

It is disconcerting even when a man accidentally finds himself in the situation of feeling not quite sure what the game is and how he should conduct himself in order not to spoil it; but with luck and skill he will extricate himself from the embarrassment and return to the less bewildering routine of his life. Participation in being, however, is not a partial involvement of man; he is engaged with the whole of his existence, for participation is existence itself. There is no van- tage point outside existence from which its meaning can be viewed and a course of action charted according to a plan, nor is there a blessed island to which man can withdraw in order to recapture his self. The role of existence must be played in uncertainty of its meaning, as an adventure of decision on the edge of freedom and necessity. (p. 1)

人は自己の意味も世界の成り立ちも知らぬまま、不可知性のなかで生き、その役割を演じなければならない。それでも人は何某かを知ることができる。「この究極的で本質的な無知は、完全な無知ではない。人は存在の秩序に関して一定の知識を得ることができるし、そこには知りうるものと知り得ぬものの区別もまた多く含まれる。けれどもそのような成果は経験と象徴化の長いプロセスの後でなし得るものであり、それがこの研究の主題である。(拙訳)」そこには単純な象徴体系から複雑なものへと差異化=分化していく一つのプロセスを見て取ることができる。

この過程には幾つかの特徴がある。第一、最も初期の象徴の体系における「参加経験の優越 predominance of the experience of participation」。人間が全てのものに意味を見いだし、実質的には関係がないもの同士の中に様々な関係性を見いだす。人々はあらゆる存在に共同性を見いだし、「存在の共同体 community of being」への参与を通じて自らの存在を確認する。「我々が出会う全てのものに力と意志と感情があり、動物と植物が人間や神々に変化することができ、人間が神に、神が王になることができる、」そのような世界である。第二、「残るものと去るもの」についての強い思い。或人が残るときは或人が去り、彼が去るときはまた或人が残る、そのような共同体に人間は生きてきた。死にゆく定めを持つ人間と、そうでない神々といったような考えは、ここから発する。

第三、本質的に知ることのできない存在の秩序に対するアナロジーを通じた接近。人間は既に存在する象徴を複雑化し、より世界を正しく把握できるような象徴を創りだす。この過程こそがこの研究の対象そのものである。例を挙げる。一つは、社会秩序を、宇宙秩序とのアナロジーにおいて、ミクロコスモスとして社会を理解するもの。もう一つは、それを人間存在とその秩序のアナロジーにおいて、マクロアントロポスとして理解するものである。前者のように理解される社会では、例えば天体の運動や植物の刈り入れがそのまま社会の構造や秩序に影響されると考えられる。古代近東、メソポタミアなどに見られるこの様な社会を、フェーゲリンは「宇宙論的帝国 cosmological empires」と呼び、比較的初期の、より単純な象徴体系として理解している。一方で後者は、そのような宇宙論的帝国が解体され秩序が崩れ去った後に発生する。もはや宇宙とのアナロジーで社会を理解することができなくなったとき、人々は目に見えるものから、目に見えないもの、何か超越的なもの、魂によって理解できるものを追い求めようとする。このようなとき、初めて人間の魂という概念のアナロジーに基づいて社会秩序を理解するような象徴体系が立ち現れるのである。このような移行はトインビーが「動乱の時代」と考えた時期に様々な文明で─エジプト、中国、インド、ギリシアで─起こっていることが確認されている。

第四の特徴。この象徴化のプロセスの初期段階において、人々は自分の象徴がアナロジーによるものだと自覚している。存在の秩序は本質的には知ることができないが、様々な象徴を利用することでアナロジーとしてそれに近づくことはできる。どのようなアナロジーや象徴を持ってしても世界の理解を深めることは可能なのである。この互換性に人々が気づいていたからこそ、初期の象徴体系は非常にお互いに対して寛容であって、あるメソポタミア都市国家の世界理解は、別の都市国家の異なった理解によって妨げられなかったのではないか、とフェーゲリンは考える。

しかしこのような寛容は唯一性に関する意識によって排除されていく。元来真理はひとつしか存在しないはずであるのに、それを指し示している象徴が複数存在するということ、それ自体が不適当なものである、という思考が強くなれば、複数の神々の中にヒエラルキーを創り出そうとしたり、他の全ての神々を生み出した始原の神が見いだされることになり、不寛容が生まれ、よい神話と悪い神話を分けようとするような試みも行われる。しかし、そもそも真理と完全に合致した象徴を生み出すことは本質的に不可能であったことを考えれば、このような不寛容は何も変えることができないばかりか、ずっと知られていたことを再度強調しているだけではないか?

けれどもフェーゲリンはここである種の不寛容を積極的に捉えようとしている。それが、イスラエルにおける啓示に代表されるような「存在における跳躍 leap in being」である。人々が上記のような不寛容を徹底し、あくまでも存在の秩序に忠実であろうとしたとき、彼らはその結果として世界や社会を「誤った類推の源」として拒絶し、第一の特徴で説明したような存在の共同体から離れて、超越的な神とのみ共同するようなものとして自らを理解することとなる。人々は存在するものとのアナロジーによる部分的な世界理解から脱却して、超越的で全体的な世界理解を提供するようなものとの共同性を自らの中に確立し、世俗的なものとの関わりは二次的なものとなる。この「転向 conversion」こそがイスラエルで、そして古代ギリシアの哲学者たちの間で起こったことなのである。このような意識を持ち出した人々はもはやこの「跳躍」を経験していない人々とは全く異なる存在として自らを理解するようになる。イスラエルの人々が「選ばれた民」を自称するのは、そのような論理に基づいているのである。勿論、超越的なものとの共同性を意識の上で確立したからといって、今まで生きてきた世界から離れるわけではない。しかし以前とは異なり、意識は超越的なものとそうでないものとの間に存在することになる。だからこそプラトンは、「神が人間の尺度である」と断言することができる。フェーゲリンはこの「中間性」こそが哲学者の意識にとって最も重要なものであると考えており、彼にとってこの「跳躍」は人類の秩序観の歴史の中で最も重要なものとして位置づけられることとなる*1

まとめ。第一巻で提示されたプログラムを支える思想は以下のようなものである。まず、古代から現在に至るまでの、象徴体系の分化=差異化を通じた絶え間ない複雑化のプロセスが存在するということ。このようなプロセスは、まずは存在の中で始まり、アナロジーを通して複雑化する。ミクロコスモスとしての社会から、マクロアントロポスとしての社会への理解の変化などがこの一例である。しかしある点で、そのようなアナロジーによる部分的な真理に対する不寛容が宗教による世界の「拒絶」へまで高まったとき、「存在における跳躍」が起こり、人は存在における世界の中での共同性から超越的な世界の外にある神との共同性へと意識を変化させ、結果として超越的なものと存在するものとの中間性の中で自らを意識することになる。このような「跳躍」がイスラエルの宗教において、そして古代ギリシアの哲学において発生したことである。

*1:勿論神々はこの「跳躍」よりはるか以前から人間の世界の中に存在した。けれどもこれらの神々は超越的なものではなく、むしろ世界の中にあって人間と対話し、共に生きる神々なのであって、フェーゲリンの用語で言えば「世界内的な intrascomic」神々なのであって、「世界超越的 transmundane」なものではないと考えられるべきであろう。