経済学は市場の境界と戯れる

Mitchell, Timothy. 2007. The Properties of Markets. In Mackenzie, D. A., Minesa, F., and Siu, L. (Eds.) Do Economists Make Markets?: On the Performativity of Economics. Princeton: Princeton University Press.

経済学に対する比較的よく見られる批判は、それが現実をうまく反映できていないということである。すなわち、新古典派経済学の作り出す様々なモデルは、現実の複雑性を縮減しており、それ故現実の正確な理解には至ることがない。そのような不十分な理解に基づいた政策もまた必然的に誤らざるを得ない。けれども筆者はこのような批判に応えて、経済学が真に批判されなければならないのは、そのパフォーマティビティ故である、とする。我々は経済学が「言うこと」を批判するだけではなく、それが「すること」をも批判しなければならない。すなわち経済学は、様々な政策や法規制に訴え、市場が働くために必要である所の様々な排除の組織化を行うために必要とされているのである。

ペルーの経済学者であるエルナンド・デ・ソトは、Institute for Liberty and Democracy なるシンクタンクを立ち上げ、『資本主義の謎』という本を著して、「南側の貧困は、北側と比べて、土地の所有がインフォーマルであることが原因である」と主張した。北側の人々はフォーマルな土地の所有を行っているためそれを担保にして積極的に富を増やしていくことができるが、南側の人々の土地所有はインフォーマルであり、それ故担保として機能しない。このような「死んだ資本」を、フォーマル化によって「生きた資本」へと変換させることが貧困撲滅への未知である、と。このような主張はハイエクサッチャーの賛同を経て世界銀行に受け入れられ、ムバラクの息子ガマールの協力を得てエジプトで2004年に実行に移された。しかし、結果は惨憺たるものだった。私有権が明確化されたあらゆる土地で貧富の差は寧ろ増大し、デ・ソトが予想したような、土地を担保にしたアントレプレナーシップは発揮されなかった。抑もエジプトにおいてフォーマルな私有が行われていなかった理由は、二〇世紀を通じて、「政府は人々をホームレスにするな」というローカルな数々の闘争が行われていたことにあったのである。インフォーマルな所有が行われていた際に土地に対して一定の権利を持っていた女性や貧困層は、それがフォーマル化され裕福な男性の所有が明確になるとその権利を失った。彼らは元々、市場の「外」にいたのではなく、寧ろ包摂されながら排除されるというライメンにいたのである。経済学がしたことは、この境界を操作すること、である。

経済学はかくして、何が市場であり、何か市場の外にあるのかを巡るゲームの中で決定的な影響を持つ。この経済学のパフォーマティブな力は,それが現実を理解する仕方にあるのではない。それはネオリベラルなプロジェクトの道具として振る舞い、権力関係を再生産する。

興味深かったこと

  • 例えば土地所有の書類による明確化はアメリカやイギリスですら徹底して行われていたわけではない。デ・ソトの議論は言うまでもなく間違っている。しかし重要なのはそれが正しいか間違っているか、ではない
  • これはそのままフーコーが「生政治の誕生」で行ったプロジェクトの延長線上に位置づけられるものである。